このコーナーは、財団法人大阪都市協会が発行する
雑誌
「大阪人」 Vol58 2004年1月号
に掲載されたものです。

文=大山健輔
写真=浅井英美


「いま、子どもは悲鳴を上げている。
気づかん親がどれだけ多いか」
厳格に、過激に、親を叱り、子を諭す。
たかが紙芝居、されど紙芝居
「世界に向けて大阪発信の文化を~」
プロの紙芝居師は
気宇壮大なビジョンを掲げ
今日も公園に立つ
石川県羽咋市から大阪に出てきてまもなく
のころ、当時勉めていた染色工場前で

命がけで、オレ流を貫く

 あれは遠い日の出来事。まだ時間が緩やかに流れていた時代、昭和三十二、三年ごろのことだ。家にテレビはなく、しゃれたゲームもなく塾もなかった。勉強しなくても、母親にうるさく叱られることもなかった。子どもたちは、学校を終えてから夕飯までの白由な時間を缶蹴りや鬼ごっこ」で遊んだものだ。女の子はゴム飛びだった。周りに公園なんてなかったけれど、迷路のような町内の路地が格好の遊び場を提供してくれていた。
 オート三輪(バタコと呼んでいた)が砂ぼこりを上げデコボコ道を通り過ぎると、横町の向一」うから「カーン、カーン」と乾いた拍子木の音が聞こえてくる。あっ、おっちゃん、来た!はやる気持ちを抑え、子どもたちは砂利道を子犬のように駈けていく。しっかり握りしめた五円玉は汗で濡れていた。硬貨一枚が子どもたちの夢を膨らませていた時代。いまの子どもたちも、あのころのぼくたちと同じなのだろうか。
 今回、追っかけをした紙芝居のおっちゃん、杉浦貞さんは、この道ひと筋なリわいの人ではない。紙芝居を生業としたのは昭和五十五年からで、当時勤めていた染色工場が倒産したことから「この道で人生を切り拓くことを決心した」という人である。そのとき四十九歳だった。
 「子どもたちが、いまのオレを支えてくれてる。お菓子を買うてもろて、一人五十円。月に最低千人の子どもがカネを使うてくれんと、オレは生きていけん。五万円あれば食うだけなら、なんとか食うていける。十万稼ごうとおもたら二千人や。それだけの子どもを惹きっける魅力をどうやってつくるか」
 
道を決めたとき、昔見た紙芝居が脳裏に浮かんだという。郷里の石川県羽咋市から大阪に出てきた当時、新世界で出会った紙芝居のおやじの印象が強烈に残っていた。
 「きれいな声でのうてええ。ダミ声でもなんでもええ。紙芝居は地でいかなあかん。その人は一生懸命やってたんや。説得力があった。一生懸命というのは凄いことや。あのとき、そう思ったな」。オレ独白のものを一生懸命、命がけでやる。そう決心してから、足かけ二十四年がたった。紙芝居を始めたころに見にきていた女の子が、いま母親になっている。「母子二代、見にきてくれるのがおる。これはオレの財産や」と杉浦さんは一言う。
 十六年前、ぼくは紙芝居の台本を書いたことがある。ある仕事で杉浦さんと知り合って、そのとき「どや、阪田三吉を書いてみんか」と声をかけられた。当時、杉浦さんはオリジナルの紙芝居を二、三作つくっていて、新作づくりに力を入れていた。「古い作品ばっかりやと子どもは興味を示さない。新しいものをはさむと見る目が違ってくる。目の輝きやのうて、目の力が違うんや」。いま、オリジナルは十五作品に増えている。
 十六年ぶりの再会は都島のベルパークシティ。すっかり髪が白くなった杉浦さんは相変わらず元気で、相変わらず迫力満点だった。以前と同じスーパーカブ90。これは三台目であるらしい。
 午後三時すぎ、拍子木を叩きながら、大相撲の触れ太鼓よろしく団地内を回り歩く。顔なじみの小学生に「どや、来れるか?・」「きょうは行かれへんわ、おっちゃん」。どうやら塾の日らしい。この仕事、子どもたちが学校を終える三時頃からでないと動けないし、雨の日は商売にならない。夕方までの数時間が勝負だから、一日に三カ所回るのが限度だ。それに、学校が週休二日になったことで下校時間が遅くなり、公園で遊ぶ子が少なくなった。習い事を二つも三つもかかえてる子も増えた。紙芝居には受難の時代である。

紙芝居師、吠える!

 かつて杉浦さんは「紙芝居というのはガキ大将養成所なんや」と話していたが、最近、そのガキ大将が育たなくなったと言う。
「グループのなかに一人ガキ大将がおると、自然とタテの関係が生じて、年下を庇うとかいたわるということが身にっくんやけど……。いまはガキ大将の芽が出ない。近ごろの子は遊ぶということができなくなった」
 そう言って嘆くのである。
 この日の演し物は滑稽物の古典『トク坊』、恐怖物の『怪猫地獄』『クイズ・ちえの扉』の三本立て。「怖いものを知らん人間は、大人になって悪いことをする。子どものときに怖いものを知ることは大事なんや」「こういうクイズで必死になるヤツは学校で勉強でけへんヤツや。そやけどな、おっちゃん一言うとったる。そういうヤツが世問に出てから出世する」「もっと知恵を出せ!勉強より知恵が大事や。学校の本では生きていけんぞ!」
 といったことを巧みに挿入しながら、場を盛り上げていく。ベルパーク劇場は十五分程で終わった。ヘルメットを被り、次のしろきた団地へ急ぐ。ああ、忙しい。こっちも慌てて後を追った。
 戦後の紙芝居の流れは、二十二、三年ごろから始まり、二十年代後半をピークに三十年を過ぎたあたりで下降線をたどったようだ。ピーク時には大阪だけで二千人の紙芝屠のおっちゃんがいたという。そういえば、昔は 四ツ角や路地裏で、毎日のように違う紙芝居屋を見かけたように思う。〕一十年ぐらい前までは、大阪にまだ百人ぐらいおったんや。いまは、紙芝居でメシ食うとるのはオレぐらいしかおらん」
 この仕事を本気でやったら使命感がわいてくる、と杉浦さんは言う。子どもの将来のために、何かインパクトを与えたい。精神的な財産になる何かを。「そう考えると、まず紙芝居をきちんとした形で復活させることが大事なんや。これまで多くの作品が散逸してしもてる。続き物が切り売りされてきた。里見八犬伝の八つの玉と同じで、一つ失われると物語は成立せん。だれかが後世に遺さなあかん」
 杉浦さんの白宅には長年かけて蒐集した貴重な紙芝居が約三万枚、大切に所蔵されている。イベント出演で稼いだ収入が、すべて蒐集費用にあてられた。新しい紙芝居を創作するのもその想いからだ。美術学校の生徒や絵描きの卵を探し、紙芝居独特の画法を習得してもらうのは大変なのだが、それよりも、苦しいのが資金繰りである。日本のヘレン・ケラーと呼ばれ、生きる尊さを訴え続けた故・中村久子の物語は、画家探しに難航し、完成まで八年を費やした大作。六巻六十枚、制作費二百万円を注ぎ込んだ。「そのときどきの自分の人生観が作品に反映される。白分がいま感動してるもの、子どもたちに見せたいものは何か。それを突き詰めていくと、どうしてもオリジナルを創りたくなるんや」頑固一徹、こうと決めたらなにがなんでもやり抜く。そこがこの人らしい。紙芝居のない土・日・祝日は、講演活動で忙しく各地を回っている。請われれば、どこへでも出かけていく。真正面から子どもと向き合って得た、いわば地べたの教育論を親や教師たちにぶつけるのが自分の使命だと感じている。「親は子どもに期待をかけすぎやな。自分はトンビやのにタカを産んだと勘違いしとる。いま、子どもは悲鳴を上げてる。それに気づかん親がどれだけ多いか。そやから父兄相手の講演で、わしはケンカ売ってるんや」教育間題になると、杉浦さんの口調は一層烈しくなる。口角泡を飛ばさんばかりの熱弁をふるう。「たかが紙芝居屋の墜言やけど、オレが吠えることで少しでも耳を傾けてくれる人がいる。これからもどんどん吠えるでえ」

紙芝居の法人化をめざす

 杉浦さんには長年温めている夢がある。紙芝居を法人化して絵の制作、画家の育成、プロの紙芝居師を育て、「大阪発信の紙芝居を世界に向けて送り出したい、広く民族の交流を実現したい」という壮大なビジョンを持っている。紙芝居の蒐集も作品づくりも、そのための準備である。
 最近、ホームページを立ち上げたらしい。《真剣に紙芝居やる人求ム!》プロの紙芝居師の育成に乗り出した。もっとも、安定した収入を期待されては困る、という条件付きではあるが。したがって生活に困っていない、例えば年金生活者で、社会に貢献したいと考えている人。「この仕事は、社会意識があったらやめられん。夢を持ってやり抜こうと思うんやったら、ぜひ始めてほしい」と訴える。
 世界平和と民族交流のための紙芝居これを本言壮語、荒唐無稽と笑うのは簡単だが、杉浦さんは、その情熱を持ち続けることに価値があると考えているのだ。大いなる理想主義である。夢想家である。しかし、その夢はまっとうな夢である。「想像してごらん、地球に国境なんかないと……」。そう唄ったジョン・レノンのように。
 しろきた団地を終え、最後のステージ、大東町のマンション前の公園に到着したのは五時半を過ぎていた。暗くなった公園に、街灯の明かりが射している。どんなに暗くなっても、そこに待っている子どもがいるかぎり、すっぽかすことはしないというのが約束事。二十五人程のチビッコを前に、この日三度目の『トク坊』が始まった。
「二十四年間、毎日子どもと接していて、どうですか」
「そらあ、疲れるでえ(笑)。コツなんてないんやから。体力を蓄えて、精一杯ぶつけるだけや。毎日が闘いや」。紙芝居は体力勝負。杉浦さんは今年七十二になった。最近は酒をひかえ、睡眠をしっかり取るようにしている。人とのつきあいも程々に、十一時までには家に帰る。
「そうしないと、子どもの前に出れん。恥ずかしい。こっちが恥をかく。一日三カ所回ったとして、絶対に一カ所は白分でも満足のいくものにせんといかん。それがプロなんや」
 子どもたちとの約束を無事に果たし、杉浦さんは晴れやかな顔で、風のように公園を去っていった。『続きは、また来週のおたのしみ……』そう言い残して。

トップページへ戻る


NPO法人 紙芝居文化協会
杉 浦   貞
〒531-0062 大阪市北区長柄中2-7-16
TEL & FAX 06-6353-2957