このコーナーは、杉浦  貞が、経験したことや普段から考えている事を不定期に書き綴るコーナーです。

第3話

 まず、飛び込み実演をしたのは大阪北区の淀川南100m、まわりの三面は住宅で、東側は新築マンションに囲まれたこじんまりとした街中の空き地の様な小公園でした。
  この小公園は熱気に満ちあふれているのです。西側半分に小学生3〜4年生の20人位が思いっ切り軟式の野球に取り組んでいます。
その横側におそれる気もなく幼稚園児と思われる、1〜2年生の男女が鉄棒をしたり、ママごとをしたり、砂遊びに夢中にになっているのです 。昨今の様に大人が子供には付いていませんでした。
  この小公園は、公園の隅から隅まで100%子供達の思い思いの遊びの広場と生かされているのです。遊びがそれぞれに住み分けられていて、一つ一つを見れば、雑然としていますが、上空から見ると、整然として、統一されて廻っているはずです。
  言葉では表現できない雰囲気と現象です。こんな広場に飛び込めば、現代の子供の不登校やウツ病なんて一秒間で消えうせるでしょう。
  この公園の片隅に紙芝居用自転車を乗り入れたら大変です。アッと思う間もなく、野球少年20人に取り囲まれ、すごまれてしまうのです。
  こんな場合の対応が、実は今後の街頭紙芝居人生の成功か不成功かを決定すると同時に、子供達のエネルギーを理解する最高のチャンスなのです。
  詳細については、今年の桜の花咲く季節の前後に、出版予定の「紙芝居が始まるよ」の本に書く予定です。

  さて、第1話に約束していました、「紙芝居師」の呼び名の件ですが、平成11年5月31日、毎日新聞夕刊取材の若い記者とのやりとりの事から生まれたものなのです。
  実は、家庭の主婦が気まぐれに幼稚園などでやっていたり、病院などで手書きで簡単な絵を画いて、患者さんに見せていたり、己はプロだと言いながら、1ヶ月に1〜2回、集会所などでやっていたり、それが、すべて紙芝居の3文字で片付けられているので、日頃から憂うつでした。
  毎日2〜3ヶ所、生活をかけて1ヶ月千人以上の子供達を集めて必死に演じているプロ紙芝居の私はいったいなんだと悩みました。
  記者さんとの会話の時に、プロ紙芝居と、気まぐれなボランティア又はアマチュア紙芝居の区別の意味で「紙芝居師」と表現してほしいと言ったことから、日本で初めて紙芝居師の印刷文字が新聞紙上に表れたのです。すると、すごいですねぇ。一週間もたたずに、各新聞社の記事が、あの気まぐれなオバチャン紙芝居もすべて紙芝居師に表現されて来るのです。私の思いが完全にくつがえされてしまいました。
  くやしい、くやしい、と思いながらも反面、私の名付けが世間が待ち望んでいたんだと思うと、何か世の中に良い事をさせていただいた様で、陽気が体に満ちて来るのです。
  いたちごっこですが、そこで又生まれました。その生まれた言葉が、「プロ紙芝居師」の名前です。
  さすが、世間様はかしこいです。
  その後、プロを名乗る紙芝居師は誰もいないでしょう。毎日街頭で年間、最低でも600回以上26年間やり続けて来ていますので、言葉遊び印刷記事では出来ないのです。
  プロを名乗ると世間の感覚もピシッとしまるものです。すると今度はプロ紙芝居師の心を知りたがるのです。
  その心とは……? 果たして何であろうか? 次回のお楽しみ…。

(H20.3.末一部修正)

第2話

 ところで、皆さん、紙芝居屋、紙芝居のオッチャン等々、色んな呼び名の中に、ある時、突然「紙芝居師」という呼び名がマスコミに現れて来ましたが、その由来をご存知かな?
 実はこの言葉の発案者は不省、紙芝居業26年の我が輩が創造した言葉です。
 ウソ!ウソ!!ウソ!!
と思われるでしょうが、事実です。この事は、第3話に書きます。
 さて、街頭紙芝居業者は、最盛期の昭和30年代には全国で5万人も居られたのに、実は昭和30年〜40年にかけて、東京を中心に壊滅したそうです。
 テレビが生まれ、高度成長期に入りますと、紙芝居業者は会社に行きだし、幼稚園、塾が急増し、テレビが生まれ、子供達の街中での遊びが急減したそうです。
 おまけに、美味しいお菓子は急増してきますと、安易なアメ売りだけでの紙芝居業では売り上げも急減せざるを得ません。
 私が大阪紙しばい業者免許を取得したのは昭和53年10月27日です。
 3種の学科試験があり、胸のレントゲン写真も撮られます。
  2年後の昭和55年の春48才から実際のプロの街頭紙しばい師としてスタートしたのでした。
 当時、毎度、街頭で、生活をかけてのプロ紙芝居屋さんは、全国で20〜30名位迄でしょうか?。関西では10数人位と絵元さんから聞いた事があります。絵元さんとは、紙しばい業者の総元締めで現在の映画制作会社的な存在です。
 壊滅状態から15年も過ぎての新米紙芝居屋の誕生です。
 かつて、15〜16年前に先輩紙しばい屋さんが築き残して行ってくださった習慣が、街中には生き続けていた関係で、なつかしさを呼び覚まされ、スタートは全然苦労を感じませんでした。

(H20.1)

第1話

 「群盲象をなぜる?」。ホスピス紙芝居、落語紙芝居、南京玉すだれ紙芝居、印刷、教育紙芝居、街頭紙芝居等々。
いずれにしても、ボランティアくずれの売名と、自己満足小銭稼ぎなのではないか。マスコミ報道も甘い!特に、街頭紙芝居を名乗る人たちならば、毎々街頭に出てやるべきものだが、昨今それはほとんど見たこともない。たまたまやっていても、大半は室内にて演じているのを見聞きするだけだ。
街頭紙芝居とは、昭和23年に全国的に紙しばい業者条例が施行され、街頭紙しばい業者免許証が発行された。
最盛期の昭和30年前後には、大阪だけでも2,600人弱位は居られた。生活の為に、1日6〜7ヶ所も街頭で毎日必死に紙芝居をされて、多くの子供達を遊ばせ、遊びの中から子供達の夢づくりの手伝いとされていたのだ。
今、現在に再現するならば、菩薩業に価するだろう。

(H19.12)

 

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